高知酒造は日本の伝統である日本酒を造る会社です

昭和18年、戦局の様相もだんだん厳しくなったころ、 各産業に対する企業整備法により清酒製造業はその半数が転廃され、高知市・長岡郡・吾川郡・土佐郡の1市3郡の酒造家28社が統合。
昭和19年、高知酒造株式会社設立となりました。
この時、合同銘柄として「清酒 花の友」が誕生したのですが、現在は商標登録不備により、花の友ではなく
瀧嵐を主に製造しています。
その後一部は分離し、現在では22社合同を保っていますが、銘柄で言うと若竹・土佐泉・大国正宗・瀧嵐・仁淀川・千代吉野川・杉の泉・菊若葉・玉柳・八千代盛・葉桜・峰の鶴・岩ノ井・日の出・阿ら玉・千成・加茂川・渓泉・世の中などの酒造家となります。
設立してすぐから酒蔵周辺の水質悪化という問題を避けるために水を求めて移転を繰り返し、 3度目にして理想的な水質を持つ仁淀川に出合い、現在のいの町勝賀瀬に落ち着くこととなりました。
仁淀川は四国でも毎年良質水川として上位に格付けされており、
川の透明度も全国で5本の指に入るほどの川。土佐風土記でも「仁淀川を三輪(神)河といい、この川の源は伊予の国まで達している大きな川で、 水が清らかなので大神に捧げる酒造りに用いた。」という記述があります。
高知酒造はこの水・この地でこれからも
皆様に喜んでいただける、美味しいお酒を造り続けます。

1886(明治19)年、鹿児島藩士吉井友実の孫として伯爵家に生まれた吉井勇は早稲田大学政治経済科を中退し、新詩社に入社。「明星」に短歌を発表して注目された歌人です。与謝野晶子や北原白秋、石川啄木らと時代を共にした勇ですが、家庭内の不和や実家の没落なども重なって、失意と人間不信にさいなまれた時期がありました。
しかし、知人らの協力で高知県香北町猪野々に草庵「渓鬼(けいき)荘」を構え、ほぼ自給自足の生活を送った約三年間で酒と湯と山里の素朴な人情にも救われ、見事な復活を遂げたと言われています。
高知の生活の中で勇は高知酒造釜Z代目・九代目の社長(伊野部昌一)の父・伊野部恒吉を酒麻呂と呼び、親しくしていました。勇が猪野々の地に心惹かれ草庵をここに作りたいと恒吉に話した時も、ちょうど酒蔵の裏手にあった隠居所を取り壊すので、その古材木を持っていって建てたらどうかと譲り、それが土台となって渓鬼荘ができたということです。
恒吉と酒の縁による歌を数多く残している吉井勇。
なかでも上述の歌からは瀧嵐をこよなく愛したことがよく伝わってきます。
※高知県香美市「吉井勇記念館」はこちら。≫
10代目社長の醸造元 若竹酒造の歴史
初代 竹村竹太郎は明治11年に高知市細工町14番地(現在のはりまや町)で若竹酒造を創業しました。初代は子供に恵まれず、安芸市土居の野良時計の隣にある 昔そのままの庄屋の門構えを残す森澤家から 豊之助 を、妻の光(ミツ)の里 石谷家(石谷家の先祖は、山内一豊が国入りしたとき一緒に高知入りした下級武士だった。)から久万を、養子・養女にもらいうけ、
夫婦にしました。
豊之助は明治18年7月28日生まれで、明治42年に若竹酒造二代目を継承。その頃の製造石数は約1300石で、移入酒をあわせ2000石の酒蔵であったと記録に残っています(代表銘柄は若竹・若笹)。その後、企業整備法により若竹酒造も高知酒造鰍ニ一体となり、高知酒造鰍フ三代目社長として昭和30年〜40年まで活躍しました。昭和60年から豊之助の孫である彰夫が10代目を引き継ぎ現在に至ります。
※10代目社長の母の里 田中家の話はこちらから。≫